2011年09月11日

責任あるポジションを与えて結果を問うことについて

前々回からの続きである。

ビジネス・パーソンを鍛え上げるためには3つポイントがあり、今日はそのうちの2つめ
「責任あるポジションを与えて結果を問う。」(つまり子会社や海外に飛ばして擬似的な昇進をさせるということ)
という内容である。

私がこのことが重要だと思う理由のひとつは、それが「良い意味での勘違いを起こさせる効果がある。」からだと考えている。目的があくまで、「ビジネス・パーソンを鍛え上げること」であるので、まずは自分は会社から見てもそれなりの人物なのではないかと信じ込ませる必要がある。自分でさえできないと思っている場合と、自分なら出来るかもしれないと思っている場合で、どちらが物事の成功確率が高いかということを考えてみればお分かり頂けるものと思う。

しかし、そうすると「悪い勘違い」すなわち「自惚れ」を誘発する可能性もあるが、その場合は即座に監督者がそれを修正すればよい。相手次第で、それとなく諭すのでもよいし、鉄拳を加えるのでもよい。ただ、例えば海外の子会社かどこかにいて、日々の活動が見えないことに無関心にしてしまうのは良くない。特に優秀で、口も達者で、業績もそこそこの人物の場合は、「悪い勘違い」に十分に注意すべきである。

次の理由は、責任あるポジションを与えることは、「全体感を持つトレーニング」になるからである。営業、技術、製造、なんでよいが担当者である限り、その範疇で優秀であればよい。もちろん、仕事に必要なコミュニケーションは社内、社外問わずしなければならないが。しかし、マネージャーとなるとそれだけでは不十分である。当然、ありとあらゆる調整業務に忙殺されるし、その中で結果も問われる、そして専門能力というのは実は企業活動の中では不可欠ではあるが、ある意味パーツに過ぎないことが実体験として分かってくるのである。

もっと言えば、企業と言うのは自分が属している小集団の集まりであり、大集団としてよい業績を上げなければ本来意味がないということが、身にしみて理解できると言うことであり、このような感覚を持った若いビジネス・パーソンを少しでも多く養成しておくことの経営上の意味合いは大きい。

3つ目の理由は、責任あるポジションを与えることによって、「プロセスでなく結果で問われる経験」を与えることができるからである。私自身は、結果よりプロセスが大事であると考えている。しかし、それは良いプロセスを踏むことによって良い結果が出る可能性が高くなるからであって、結果があくまで最終目標であることが大前提の話しである。私はプロセスばかりで評価をするようになると、当然被評価者は良いつまり良いと判断してもらえるはずのプロセスばかり追及することになり、結果が重視されなくなる落とし穴に陥るケースが多くなると考えている。営業のように数字で判断される部門ではそのようなことは起こりにくいかもしれないが、技術や商品企画のような部門ではこの傾向が強くなるように感じている。

もちろん、結果オンリーになるとモチベーションも下がるし、独創的なアイデアもでなくなるというデメリットもあるので要注意である。しかし、これはという人物には企業というのは本来結果オンリーの場所であり、であるがゆえにプロセスを重視するという現象が起きているのだという、物事の真実を教えるべきではないだろうか。禅問答のような話しになってしまったが、ご理解頂けるとありがたい。

私の小学校からの友人で、ある日本の企業に勤めながら、もう15年近くアジアのある国にいて、40を過ぎたころからか現地法人の社長をやっているものがいる。30を過ぎて赴任したころは、現地の1日が日本の1ヶ月に相当する経験と言い、35を過ぎた頃には会社のあらゆる部門にコネクションを作り、お客とも仲良くなって全体感を養って、異文化の中で発生する様々な問題に対処しながら、常に予算の達成というノルマに追われてきた。このような人間であれば、日本で起きるような些細な問題を問題とも思わないだろうし、どのような難しい環境におかれてもそれなりの対応ができるだろう。つまり、仕事を通して特に特別な教育などを施さずとも経営に必要な人物に育ってきたということである。

とはいえ、彼のような本当の実務家を育てるのには、木々が年輪を重ねるような時間が必要であり、一方で40前後にもなって初めてマネージャー教育を施す企業があるとして、後者が前者にどうやっても追いつけない差が存在するように思う。実戦経験で養ってきた、スキルやタクティクスあるいは精神力と言えば良いのだろうか?韓国系企業の育成システムが最近良く話題になるが、実は世界で戦っている日本企業が何十年も前からやっていたこととそれほど大きく違いはないないのではないかと、個人的見解の域はでないがそう思っている。
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2011年09月05日

過酷な状況こそが潜在能力を開花させる

さて、先日の続きである。

まとめとしてビジネス・パーソンを鍛え上げるためには、
1.若いうちにできるだけ過酷な状況を経験させる。
2.責任あるポジションを与えて結果を問う。(つまり子会社や海外に飛ばして擬似的な昇進をさせるということ)
3.実践経験の中で不足している知識やスキルを必要に応じて与えていく。
という私の考えを述べた。これらのことを具体的にお話ししたい。

まず1つめの、「若いうちにできるだけ過酷な状況を経験させる。」ということについては、これには「私のようなバブルのどさくさに紛れて就職できた元ダメダメ学生でも」という前置きがつくほど大切なことだと思っている。なぜなら、人の潜在能力というのはそれが本当に必要であり、かつ完成形でないとしても僅かでも実在するのであれば、何らかの形で表出してくるからである。

日本のきっちりした組織の中に組み込まれていて、若手あるいは中堅社員がまず第一に考えることは、上役や組織が作り出す空気を乱すことなく、必要とされる最低限の答えを出すことであろう。その上でプラスαを狙っていくはずだ。それでもって、上司はあいつはできるとか、できないとかの評価を下す訳である。多くの会社はそれで平和に回っている。しかし、潜在能力を引き出すという意味ではどうであろうか?このような若手あるいは中堅社員の行動はある程度の学習能力とバランス感覚があれば、個人に備わった潜在能力を使わなくとも十分に可能なことである。本当に困ったことがあれば、上司が組織が助けてくれるという精神的な保険もあるはずだ。しかしそれでは折角の潜在能力を活かさないまま齢を重ねることとなってしまう。潜在能力を開発するのには体力が必要で、そのためにはある程度の年齢制限が存在するのである。

プロとしてのキャリアもほとんどないのに、若くして海外へ飛んだサッカー選手をイメージして欲しい。典型的にはカズこと三浦知良選手である。高校を中退してブラジルへ渡り・・・という話しはおそらく多くの方が知っていると思うのであえて書かないが、これ以上はないほどの過酷な状況であったことについて想像に難くない。では彼の潜在能力を何が開花させたのだろうか?間違いなくブラジルでの下積み時代の苦労だと思う。ブラジルに行かなくともカズはカズであったか?ブラジルに行かせなかったために「カズ」になれなかった選手も実は沢山いるのではないか?という問いをしてみると良いかもしれない。

少し極端な話しになってしまったが、私自身も材料系エンジニアとしてキャリアをスタートさせたが、是が非でも海外勤務がしたいと申し出て、入社5年目でプロダクト・マネージャーという職でアメリカに赴任させてもらうことになった。もちろん、それまでは夜遅くまで実験をやって、帰って英会話の勉強という日課を欠かしたことはなかった。ところが赴任してみると、そこは事業部でもエース中のエースでさえ苦労するポジションで、私は何をやってよいのか分からないまま、多くの人に迷惑を掛けながら体裁だけを保っているという日々が続いた。相談できる先輩は沢山いたが、業務のことは分からない。自分でやるしかないのだ。

その後は2年ほど朝昼晩、休日もないような過酷な状況に陥り、例えば極寒のシカゴオフィスで徹夜で資料を作って、明け方は大雪に埋もれた車を半泣きになって掻き出し、そのままオヘア空港に移動してフロリダに向かい、その日のうちに帰ってまた仕事ということが何度もあった。時代も時代であるし、私も若かったのでできたことであるが、そんな苦しい中で、必然的に人をうまく使ったり、できるだけ手短なコミュニケーションで確実に情報が伝わる方法を考えるようになるし、時間的に余裕がないからいざというときに押しが滅法強くなるのである。米国のお客さんとの交渉もずいぶん上達し、知らぬ間に全員が外国人のミーティングでも自分が仕切屋になっていた。

今では労務上の問題もあるだろうから、もっと楽な体制になっているだろうが、私だけではなく多くの先輩や同僚も同じように鍛え上げられ、数年でビジネス・パーソンとして別人に産まれ変わるのである。海外でなければいけないとは思わない。日本いても逃げ道を作らない方法はいくらでもあるだろう。それを愛の鞭と思えるか?それとも、従来通りあるレベルまで熟成させてからとするべきなのか?言葉で説明するのは難しいが、そのころ共に苦労した先輩や同僚、あるいは他社にいる友人であっても、この過酷であるが実益の大きい実践トレーニングの重要性を誰もが認め、今は気持ちの良い話し相手になってくれている。また同時に私は、人の能力を使い尽くすのが企業のひとつの責務であると考えるので、今後もびしびしと愛の鞭を振るわれることを推奨したいと思っている。

途中となってしまったので、次回もこの続きを書きたい。
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2011年09月04日

美しい身体と美しい頭脳

自分でもなぜだか良く分からないが、韓国でやっている世界陸上にはまっている。今年の夏は趣味が高じて身体をずいぶんと苛め抜いて来たので、出場しているアスリート達に、ほんのわずかであるけれど共感ができるようになったせいかもしれない。100%の客観では興味が持てなかったものが、わずかな主観を加えることにより大いなる興味に転化したと言えばいいのだろうか?

それにしても、彼ら、彼女らの身体の美しさには目を見張るものがある。特に、跳躍系の選手、競走では400m〜800mくらいの選手が、筋肉が太すぎず、細すぎず、まさに芸術品を見るような気持ちでテレビを見ていた。その筋肉は、重いウェイトを使って鍛えた、ぷっくりと膨張して見えるいわゆるマッチョ型ではなく、実践トレーニングをベースとして走りこんだり、付加的な自重トレーニングを基本として鍛えたまさに使える筋肉というのだろうか?身体のバランスも良く、しなやかで、日に何度も行う跳躍や予選の走りに耐えられる持久力も有している。

ところでこの数年日本では、ビジネス・パーソンの知識やスキルの重要性が見直され企業やビジネス・パーソン自身の大きな関心事になっている。意味不明のことを言うようで申し訳ないが、私はビジネス・パーソンの頭脳を造りこむプロセスを考えるにあたって、アスリートから学ぶ点が大いにあると思っている。実は自身がこの夏トレーニングに励んだのも、そのことを実験で試したかったことが理由の一つである。

いつの頃からそうなったのだろうか?特に最近は知識ばかりで、実戦経験の匂いのしない人が増えているように感じてならない。過度な知識が、ボディビルダーのように使えないぷっくり膨れた筋肉のようであり、人や組織という複雑系のコミュニケーションに耐えうるしなやかさもなく、また環境の大きな変化があったとき苦労して作り上げた正しいはずの解を修正するだけのスタミナもない。と言ってしまうと言いすぎかも知れないが・・・

私などは今でこそ、いろいろな人達に教える立場になってしまったが、元々はたたき上げもいいところで、現場で磨いた力を後で理論武装して強くしていった経緯がある。そのため、何事においても現場優先、結果優先、常に競合との凌ぎ合いをどうやって制するかばかりを考えていて、よい意味でもある意味でも汗臭いタイプに属するであろう。今の若いビジネス・パーソンは、理論武装はきっちり出来ていて、私の若かりしころとは、その点におけるレベルの違いは認めざるを得ないが、逆に汗臭さが足りない。しかしそこには企業が才能を使い尽くすという点で大きな落とし穴があるのである。

ビジネス・パーソンを鍛え上げるためにはどのようにすれば良いか?私の考えを述べるならそれは、
1.若いうちにできるだけ過酷な状況を経験させる。
2.責任あるポジションを与えて結果を問う。(つまり子会社や海外に飛ばして擬似的な昇進をさせるということ)
3.実践経験の中で不足している知識やスキルを必要に応じて与えていく。

ということになる。長くなってしまったので、この続きは次回にしたいと思う。
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2011年08月31日

円高問題に関する一考察

円高が止まらない。1円で利益がいくら吹っ飛ぶという類の分析は頻繁になされているので、なぜ円高がそれほどまでに良くないのか、少し変わった考察をしてみたい。

まず、企業における連結業績という側面での円高問題であるが、それは2つに大別されると思う。ここでは分かり易くするため通貨を米国ドル(以下ドル)に絞り、対象を製造メーカーとする。1つは輸出製品の利益悪化(あるいは損失の発生)という問題である。製品のコストは、労務費、材料費、経費(設備の減価償却費、修繕費、水道光熱費など)という3つの製造原価に加えて、販売や管理に掛かる費用が掛かり、それらの合計に対して売価が大きいと利益が出ることになる。円高になると、輸出製品の売価が仮にドルベースで決められているならば、1ドル85円から77円まで円高が進むと、円ベースで実質9%近くも値引きをしてしまったことになり、利益が吹っ飛ぶばかりか損失さえ発生してしまう訳である。

もう一つは例えば在米の子会社のようにドルベースで製造販売している企業の円ベースでの売上、利益の目減りである。この場合は、売上、利益とも1ドル85円から77円まで円高が進むともに9%売上も利益も目減りするが利益率は悪化しない。日本は輸出が多いが、自動車や家電製品の完成品の割合は以外に少ないということを聞いたことがある方も多いと思う。これは企業が製造設備や半製品を海外子会社に輸出して、そこで完成品にしているケースが多いためであり、最終製品のコストを一部円ベースで負担し、残りをドルベースで負担しているのと同義である。上記1と2のケース中間的なやり方と言ってよい。

このように、円高の影響と言ってもいろいろなケースがあるのだが、何と言っても売値がドルベースで固定され、コストの多くが円ベースであると現在のような経営環境下においては利益を創出することは極めて難しくなる。

これが、日本企業で現在起きていることであり、輸出依存型の企業にとってはこれ以上努力の余地のない災難のように多くの人は考えているだろう。しかながら、販売している商品に為替の変動を吸収させるだけの価格コントロール力がないことが本当の問題であるという考え方もできるはずだ。もし、円高になった場合はいくら値上げをしますよという契約を締結しようと思えばできなくはないはずで、この場合は交渉方法として円安になった場合のディスカウント条項を入れておくこともできる。仮に最終製品が中・小型自動車で市場が米国で、フォードやクライスラーと競合しているなら、円高による値上げは直ちに死活問題となる。一方、同じ自動車でもレクサスのような商品であれば話は違ってくるかもしれない。

あるいはこのように考えても良い。日本電産はPC用のスピンドルモーター(ハードディスクを回転させるモーター)の世界市場シェアを70%以上持っているといわれる。全てのコストが円ベースではない思うが、ここでは仮に100%が円ベースであるとする。もし、1ドル85円から77円まで円高が進んだとして、果たして日本電産は9%もの円ベースでの値引きをそのまま受け入れるだろうか?そうではないはずだ。

一方で、国内でも為替の影響を受けない商品もある。例えば、i-phoneの円高還元セールなるものを聞いたことのある方はいるだろうか?スターバックス・コーヒーの値段は下がったか?メルセデスベンツやルイ・ヴィトンは為替変動にあわせて定期的に改定を行っているようだが、ユーロ高(円安)になったときも、それをきっちり円価格に反映させることができる。それでも売上が落ちない商品を扱っているのだ。

まとめると、日本企業の多くは価格をコントロールできるだけの商品力や市場シェアを持たないままに輸出依存国であり続けてきた。そして、今回の円高ショックに国を挙げて苦しんでいるということである。私は経営の要諦はこの価格コントロール力の有無に帰結すると信じている。どのような素晴らしい経営戦略やマーケティング活動もこれを実現できなければ無意味であるということだ。また、円高だけでなく、何年も日本を苦しめてきたデフレ問題も根は同じではなかろうか?

解決方法は2つある。一つは為替など気にせず経営を出来るよう、調達から製造・販売まで単一通貨で行うことだ。もう一つは、価格のコントロール力をつけるための方策を今一度考え直すことだ。簡単なのは前者で、難しく時間が掛かるのは後者である。私はこのことは、一企業の問題を超えた国家的な問題であると思う。金融やサービス業で製造業が空洞化した分を補っていくべきだとする先生方もいらっしゃるようだが、それは日本人の特質を深く理解せずに、見た目には安易だが、実は労多くして儲けのでない世界に踏み込む第一歩ではないかと思う。

人それぞれ意見があって良い。しかし、危機が去るのを待つのでもなく、表面的な対策に終始するのでもなく、この問題について国家も企業も深く考えるときが来ているという認識だけは持たなくてはならない。

posted by 國方康任 at 19:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年08月29日

「目的が存在しない手段」の恐ろしさ

民主党の新代表が決まったようだ。関心が全くないかといえば決してそうではないが、ニュースで野球かゴルフの結果でも聞くような感じと言えばよいのだろうか?サッカーのワールドカップでの勝敗ほどの興味は持てないというのが正直なところだ。

ところで、今回は民主党の代表選は内輪のお頭(かしら)選びであるので、そこで政策について論じる義務もないのかもしれないが、国民の知りたい最たるものが政策である以上、もう少し具体的な政策論争があっても良いのではないだろうかと思う。その政策であるけれども、小沢派が勝てば民主党のマニフェストで掲げた内容を実行に移すというような話があったようで、代表選の結果がそうならなくて個人的にはほっとしているところである。

というのはマニフェストというのは、民主党に限らずそれが組織の理念や理想を体現するものではあるかもしれないが、現実に起きている諸問題とその原因、そして制約条件を必ずしも考慮されて作られているものでなく、そのため極めて表面的で、また効果測定が不可能で、現在の日本のように制約条件の多い状況下では極めて大きなトレード・オフを強いる事柄の集まりであるからである。選挙が近くなると、政治家や政党は半ば条件反射的に政策やマニフェストを考えるようになる。本来ならば、その前にこの国が抱えている問題を思いつく限り列記し、それを重要性と緊急性という2つの観点から順位付けをして、さらにその諸問題のルート・コーズ(根原因)への洞察なるものを示して、始めて政策やマニフェストを語ることができると私は考えているが、少なくともこの国においてはそうではない。

例えば、大学生の就職率が90%近くまで低下し過去最低を記録したという事実がある。大学を出た10名に1名に仕事がなく、彼らが今後世の中の主役になっていく、つまり経済を動かし、タックスペイヤーになっていくということである。ただでさえ、景気が悪かった上に、震災とその後遺症、そして円高という問題があり来年度の就職率も同じような結果になるのではないだろうか?これは、日本国にとって非常に重大な問題であると思う。また、同時にルート・コーズが特定でき、具体的な対策も考えられる事柄ではないだろうか?

それに対して、子供手当てや高速道路無料化あるいは高校の無料化などには、何を解決したいのかという議論が不足している。またそしてその効果が具体的にどうやって測定できるのかも不明である。測定できないものもあるという意見もあるのだろうが、それはうまく説明できないときに良く使われるいい訳でもある。


しかしながら、このような嘆かわしい現象は政治家にだけ見られるものではない。売上が目標値に達しないときの営業担当の説明、成果の出ない技術開発担当の説明、あるいは一見優れた経営者であっても、問題の定義とその原因の深い洞察というものを経ずに聞こえの良い対策を言ってしまうのが現実である。つまり手段は目的がなくとも存在し得るのであり、それは何の疑いもなく当たり前のように起きることであり、場合によっては組織を破滅に導く恐ろしいものでもある。このことを知っているかどうかが、幸運に頼らず物事がうまく処理するための最低の条件であると私は考えている。
posted by 國方康任 at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年08月18日

高速道路の渋滞は季節の風物詩なのか?

今年の夏もまた高速道路の渋滞がひどいようだ。暑い中をほんとうにご苦労様と申し上げたい。疲れて家に帰ってきたと思ったら、また明日から満員電車に揺られて出勤なのだろうか?1日くらいは家でゆっくりできるのだろうか?

ところで、この高速道路の渋滞はいつ始まったのだろう。明確な記述を探すのは難しいが、どうも80年代に本格化したという文書があり、個人的な感覚としてはズレていないように思う。首都圏に関して言えば、戦後の経済成長とともに地方から人口の流入が起きたが、それのみが原因ではなく、地方を実家とする人々やその家族が増えたところに、モータリゼーションの波が来たので起きた現象と言ってよいようだ。よって、データとしては人口統計よりも、自動車保有台数統計と関連があるように思う。

私は以前からこの高速の渋滞は、日夜汗水を垂らして働く多くの人々に、折角の夏休みであるにも関わらずたいへんな苦痛を強いている社会問題であると考えてきた。それは、人生を楽しむことを妨害してしまうという点で、リフレッシュして気持ちよく働いてもらうという社会生産性という点で、また交通インフラが麻痺してしまうというリスクコントロールの点においてである。

特にリスクコントロールという点での問題は、今年起きた震災によってもっとクローズアップされるべきものではないだろうか?例えば、夏の渋滞のピーク時間に関東大震災あるいはそれクラスの地震が起きたら一体どうなるのだろうか?登りのピークのタイミングであれば、地方から自衛隊や消防団がどうやって救援に駆けつけるのだろうか?また、渋滞に巻き込まれた人々はどうなってしまうのだろうか?もちろんこれは、世界的に有名な首都圏における朝夕の電車のラッシュにも当てはまることで、もっとこのような潜在的かつ重大なリスクに人は目を向けるべきだと思う。

いずれにしても、日本人はもっと優雅に休日をエンジョイできるはずだ。負のものを取り除くだけで、お金を掛けずに少しでも幸せを享受できる典型的な例だと思う。今回、震災が起きそして夏の電力問題が一大事となった。今年はなんとか乗り切れそうな感じであるが、私はいっそのこと電力のことを考えれば夏はあまり働かないことを提案したい。北日本を除くと、省エネモードでは日本の夏は暑すぎてあまり仕事に向かない。であれば春・秋・冬にもっと働き、夏の勤務時間を緩やかにすることもできる。また、お盆は8月15日を中心とした数日ということになっているが、家族ごとに例えば8月5日頃から8月20頃までの間に相談して今年はいつ頃にしようなどと決めて集まってもご先祖様は怒ったりしないだろう。それよりも、金融機関や小売業などに従事する人々がお盆に参加できないほうがもっとよくないことなのではないだろうか?

方法論を押し付けるつもりはない。ただもっと人や社会にとって優しく、かつ効率的なやり方があるのではないだろうかという気持ちが震災のあとすごく強くなってきている。
posted by 國方康任 at 19:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年08月15日

幸せの基準

幸せの基準。最近よく考えるテーマである。

以下は飲み物に関する私の子供の頃の思い出である。

−親がお客さん用に酒屋から1ダースの箱で買っておいたコカコーラやキリンレモンを姉と隠れて飲んだときのおいしさが今も忘れられない。
−始めてポンジュースを買ってきたとき、もったいながって、まるで養命酒でも飲むがごとくキャップで家族で回しのみをしたことがある。
−合成着色料が山盛り入った粉のソーダのようなものを喜んで飲んでいた。これは後にカルピスという、より健康的な飲料によって取って代わられた。

今では専門家曰く貧困度が世界でも有数であるところのこの国において、コカコーラを経済的な理由で飲めない人を探し出すことさえ難しくなっている。ましてや、100数十円も出して、お茶を買う、飲み水を買うなどということは30年前では想像もできなかったことだ。

物質的なことに限って言えばだが、私は幸福度というのはスペック的、あるいは経済的に現在どのレベルにあるかではなく、ある期間にそれらがどれだけ良くなっているか、あるいは今後良くなるか、つまり微分値(時間に対する変化の度合い)のようなもので測れるのではないかと思っている。

例えば、日本の中流層の中の上流、つまりアッパー・ミドルといわれる人がいて、片やインドにおける同じくアッパー・ミドルといわれる人がいたとする。住宅環境、食べ物、着ている服、自動車どれをとってもスペックとしては日本人の方が上であると思う。しかし当人が感じる幸福度という点ではどうだろうか?おそらくインド人の方が幸せなのではないかと思う。人というのは今は多少苦しくとも、将来に少しでも光が見えれば幸せと感じ、その逆であれば不幸せと感じる。これは絶対法則ではないか?

次に、最近の若者の無欲化あるいは消費離れについてである。我々の世代(40代)以上では子供の頃からの「微分値」としての幸福度を享受して来た者が多い。そして、それがもたらす快感、もっと言えば麻薬的効果は老いるまで失うことがないのかもしれない。それに対して、最近の若者と呼ばれる人達は、金額レベルとしては小さくとも、つまり駄菓子や飲み物、高くてもゲームや玩具といったものの獲得において、常に過剰なほどの選択肢とともに、両親や祖父母から簡単に与えられる経済的支援もあって、我々が感じてきた「微分値」としての幸福度を感じることが結果としてできず、40代以上がその主要メンバーであるところの経済人が期待する消費に対する欲望というものを持ち得ずいるのかもしれない。

残念ながらこのエッセイに結論はない。しかし、快感としての消費が仮に存在しない、あるいは要素として弱いのであれば、それを追求することは間違いであるかもしれない。また、実は想像もできぬところに快感を刺激するヒントがあるのかもしれない。そんなことを最近は考えている。


posted by 國方康任 at 19:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年08月11日

NHKの「ワールドWaveトゥナイト」はおもしろい 

NHKのBS1で午後10時からやっているワールドWaveトゥナイトという番組は面白い。

例えば9日は以下のような内容をやっていた。

「サウジアラビアでは女性が自動車の運転ができなくて、見つかると警察に捕まってしまう。学校に行くのでさえ男性の許可が必要で、選挙権すらない。そのような中で一人の勇気ある女性が、自動車の運転をしているところを動画か画像にしてFacebookに載せて訴えたところ、100人もの同国女性がそれに追随した。」 

「インドネシアでは巨額の財政を投入して軍事力を強化している。(当然、中国に対する対抗措置であると思ってみていたら)マレーシアとの仲が悪くなっていることがその背景にある。」

朝か昼間の番組であるので見る機会が少ないが、同じワールドWaveという番組のカテゴリーで、韓国・KBS,中国・CCTV,フランス・F2,カタール・アルジャジーラ,イギリス・BBC,アメリカ・ABC のニュースをダイジェストで次々とやっている番組もあり、これも非常に面白い。

同じく9日であったか、フランス・F2が北京の富裕層が金を買いまくっている取材を見たが、昨今の為替問題や金価格の急騰といった問題を市場情報でなく、より具体的に実感できる点が良かった。フランス人のアジア人感を、つまりパリでブランド品を買いまくっていたころの日本人に対する感情のようなものを少し感じさせるところも面白い。

世界は広く、またあらゆるもののバラツキは日本国内の比ではない。よって、日本で起きた特別なことは世界では日常的なことかも知れず、世界で起きている特別なことは日本人には想像すらできないことであることが多い。よって、そのような情報にときおり触れておくことは、有益な情報を得るというレベルには達しなかったとしても、妙な安心感を覚えさせる効果がある。これは、例えば危険なメキシコの内陸地を一人で旅をしていたり、アフリカのスラム街を車で駆け抜けていくときのように本当は不安なはずなのに、妙に気持ちが落ち着いてしまうときの感情にも似ている気がする。

日本においてその極めて小さいバラツキの中で、できるだけ特異な現象やモノを探し出し、それを大袈裟に表現して始めてニュースになるのであれば、それを無条件に受け入れ続ける習慣が視聴者の視野を狭め、思考のオプションを奪うことにもなり兼ねない。そしてそれはテレビのニュースに留まらず、あらゆるコミュニケーションに内在する問題であると私は常々思っている次第である。
posted by 國方康任 at 19:23| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2011年07月25日

お知らせ 7/28「HR戦略総合セミナー」にて講演を致します。

人事・教育部門の方向けポータルサイトで有名なHRプロが主催する「HR戦略総合セミナー」にて講演をさせて頂くことになりました。

https://www.hrpro.co.jp/feature013_index.php

私の担当日時は7月28日(木)14:30~15:30です。
場所はアクセス渋谷フォーラム(東京都渋谷区渋谷2-15-1 渋谷クロスタワー24階)渋谷駅から徒歩3分です。暑い日が続き移動もたいへんですが、よろしければお越し下さいませ。

「高い収益性を目指す企業のための計数教育」 というタイトルで、低成長で過当競争が続き、売っても売っても儲からない状態にあるビジネス環境の中で計数教育はどうあるべきのなのか?というお話しをさせて頂きます。

何卒よろしくお願い申し上げます。

リエゾン株式会社 代表 國方康任
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2011年07月24日

恥の概念について

日本において、ここ20年くらいで大きく変わったものの一つに「恥の概念」があると思う。

地下鉄の中で化粧をする女性、おにぎりを食べる女性、チューハイを飲むおじさんもいる。私はお酒を飲むおじさんには必ず注意をして、次の駅で降りてもらうことにする。まず間違いなく降りてくれるのは自分自身でどこか恥の概念が残っているからだと思う。そして恥ずかしくてもう二度としないことを少しは期待している。ところが化粧をする女性や、おにぎりを食べる女性に関しては打つ手がない。おそらく何の疑問もなくその行為に及んでいる表情をしているから、こちらもなすすべもなく、気持ち悪くてとにかく見ないようにするだけである。

このように恥の概念というのは時代とともに移り変わっていくものだ。20年も前に就職活動で初めて東京に来たとき、地下鉄に乗ろうとする乗客のマナーの良さに心から驚いたものであるが、今では地下鉄を降りようとしたその目の前に、座る席を確保しようとドアのど真ん中に突っ立っている健康的な若者がいたりして驚かされる。いまや東京は大阪よりマナーが悪いと言って差し支えないだろう。

私は、日本人の恥の概念とはケガレ思想から来ていると想像している。よって、外の世界にオープンでないことや、必要以上にその傾向が表れたりするデメリットを伴うこともある。しかしながら、日本人が提供する製品やサービスの品質がときに必要以上に高いのは、少しでも質が悪いと恥ずかしいと思う日本人の特質によるものであるならば、メリットの方が遥かに大きいのではないだろうか。日本のメーカーは返品を恥ずかしいと思うし、故障保険に入っているんでしょう?などとお客を前に決して開き直ったりしないのである。少しでも海外で暮らしたことのある人ならば、比較論という点において同じように感じられるのではないだろうか?

このような恥の概念の変化はどのようにもたらされたのであろうか?ひとつの原因は、政治家、役人、警察官、教師といった本来権威であるべきものの信用失墜行為の連続によるものではないだろうか。大衆はよくも悪くも権威に従うのである。あるいは世の中がおかしくなったときには必ず起きる現象なのだろうか。平安時代後期、室町時代後期などを調べてみると面白いかもしれない。ただし、私はまだこの作業をやっていない。

ところで、菅直人首相や九州電力の社長についてみなさんはどう思うだろうか?私は、菅首相に関しては一度やめるといったのであるから、即やめるべき。九州電力の社長に関しては、多くの国民(特に九州の)を結果として裏切ってしまったのであるから、実行犯とともに即やめるべきだと思っている。理屈うんぬんではなく、日本人としての価値観からそう思うのである。このような事態が続くことにより起きる教育的悪影響はいずれ国益を損なう形で表出するであろう。つまり、それは恥の基準のさらなる低下とそれに起因するクオリティの低下である。
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